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雄弁会紹介

 

拓殖大学雄弁会は、本学の前身である台湾協会学校が創立した5年後の1905年に、入江湊(5期,第7代拓殖大学学友会会長)によって「言論部」として設立されたとされている、長い歴史と伝統を誇る学内最古の学生団体の一つです。※1

豊田悌助(23期,第13代拓殖大学総長)をはじめとした、政財界や学界等の様々な分野で活躍する人材を多く輩出してきました。

設立以来幾度の名称変更を経て、1954年に「雄弁会」に改称されました。名称変更された理由について、当時の先輩は以下のように語っております。

 

「『雄弁』には雄弁家という呼称がありますが、『弁論』は弁論家とはいいません。また当時、物事の核心や真実を一途に語るのが『雄弁』、理論を整然と語るのが『弁論』という考え方がありました。しかし、『弁論』は真実をつかまなくても技術で乗り越えられるという欠点があります。もちろん、かなりの議論を重ねた上での結論ですが、拓大は『雄弁』の方向性を重視し、物事の真実を追究したいというために『改称』したのです」

 

活動の形態は時代によって変化し続けてきましたが、このような核心や真実を一途に語る「雄弁」の理想を追究することを活動の理念とし、学生として時代や社会に挑戦し、あるべき社会を模索して獅子吼するという姿勢は途絶えることなく今日も受け継がれています。

いずれにせよ我々拓殖大学雄弁会は、建学の精神たる「積極進取の気概とあらゆる民族から敬慕されるに値する教養と品格を具えた有為な人材の育成」に基づき、日々演練と研究に勤しみ、会員各々の研鑽に励んでおります。

※1

当時の部室が存在した茗荷谷校舎の恩賜記念講堂は、1945年の東京大空襲による被害を受け、戦前の資料の大半が焼失。その為設立に関する詳細は定かではなく、諸説ある。また、当時の言論部について記された正確な資料が存在するのは1905年までの記録であり、書類上における設立年は1905年としている。

茗荷谷校舎(現在の文京キャンパス)内に存在した恩賜記念講堂。雄弁会(当時は辯論部)は講堂裏の「貴賓室」を部室として利用していた。雄弁会は言論部としてここから始まった。

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